想像のガラスを割れ!

~プライベートアセットにまつわる素朴な疑問集~

ご留意事項 必ずお読み下さい 

2018年7月23日
山浦 厚能、オルタナティブ・アドバイザリー部、ディレクター、オルタナティブ インベストメント コンサルティング

ナレッジ・チャネルには、これまでの年金運営の常識を疑う観点で考察した、「年金運営にブレイクスルーを!」と題した3回に分けたシリーズ作がある。ところが、今回取り上げるプライベート・アセットの運用には、十分な時間の洗礼を受け、地に足の着いた常識、あるいはコンセンサスが国内において広く浸透しているようには見えない。各自が想像に基づき拡大した世界観から抜け出せていないというべきか。そこで、本稿では素朴で具体的な質問をいくつか提示する、という試みを行いたい。プライベート・アセットの姿を明らかにするためには、素朴な疑問を繰り返すことが、結局のところ近道ではないだろうか。

プライベート・アセットのプライベートはパブリックの対義語、つまり、上場・流通市場で売買ができるような市場性がない(もしくはきわめて少ない)という特性を色濃く打ち出したものと言える。そこで、「プライベート・アセットのリスク・リターン特性をパブリック・アセットで代替することが可能だろうか?」という疑問が生じる。より安価なツールで同様の効用が得られるのであれば、あえてプライベート・アセットに投資する必要がないわけだから。おそらくほとんどの回答はNOとなるだろう。それでも、運用機関との質疑応答を通じて—時にケーススタディを用いてもらいながら—、両者の壁を隔てているものが何かを浮き彫りにしていくことで、ストンと腹に落ちる形で理解が進むのではないだろうか(この質問は他の戦略でも使えそうですね)。 「伝統的資産のアクティブ運用はファクター投資によって、あるいは、ヘッジファンドはパブリック・アセットで代替することが可能だろうか?」といったように。その回答はここでは留保するが、多くの対話を通じて自らの仮説や見識を持つ、というプロセス自体に大きな価値があるに違いない。

現状程度の投資割合で考えれば、プライベート・アセット投資を検討する際の典型的な課題に、流動性が低い、というものがある。これを端的に表現すれば「売りたいときにフェア・バリューで売れない」ということだろう。具体的なタイミングで言えば、市場が大きく下落している時やファンドの先行きが展望できない時などを指している。しかし、前者の場合、どれだけ流動性が高い資産であろうと、底値で売却を検討するわけではなく、むしろリバランスルールに則って買い向かうかどうか、というのが現実的な検討課題となるはずだ。つまり、パブリック・アセットを売らない前提なのに、流動性の低いプライベート・アセットが売れないことを問題視するのは、不条理な気がする。市場急落時にプライベート・アセットの運用者がそれを好機と捉えた場合、むしろ機会主義的に投資が進むこともある。その際、投資家は契約に基づく資金拠出を要求される。プライベート・アセットではファンドの投資家が投資にコミットメント(出資の約束)を行っているためだ。他方、運用者は結果にコミットするわけでもないし、必ず3カ月で目に見えた成果を披露してくれるものでもない。投資家が成果を得るためには、「石の上にも3年」以上の期間を辛抱強く我慢しなければならない。さて、ここで年金基金の資金特性を思い起こすと、それは「Patient Capital」であるということだ。ルールに基づく機械的な逆張りメカニズムではなく、運用者の才覚によって結果的に機会を捉えるというメカニズムを内包する、平たく言えば、苦しい時に将来に向けた「仕込み」を行って、いつかそれが報われるという姿勢(所謂、やせ我慢ですね)と相性が良いと言えよう。

流動性が問題となるもう1つのタイミング—採用しているファンドの先行きが展望できない時—、というのは、これはもう疑う余地なく、そもそも「儲けられるプロを雇ってなんぼ」の世界なので、徹底的にリサーチを行い、禍根を残すような運用機関の採用を極力回避することに尽きる。ここでの素朴な疑問は「間違いなく成功するファンドを選定できるのか?」というものであろう。ファンド・オブ・ファンズの担当者(もちろんコンサルタントも含みますね)が笑みを浮かべながら、「当社のリサーチは秘伝のタレで長年じっくり煮込んでいます」というのがお決まりの台詞だろう。これを健全な自信と受け止めるのか、それとも不健全な慢心と見なすのか。アンケートを取れば、「健全である」と「どちらからと言えば健全である」を選択する人が過半数を超えるのではないか、というのが個人的な感覚である。この運用機関選定における超過リターン(ならびにその持続性)、というのは業界における非常に大きなテーマであって、今後も継続的に問われる重要な質問であり続ける、ということだけは間違いなく言えそうだ。

さて、年金運用担当者に対しても素朴な疑問を投げかけてみよう。それは、「誰のために運用しているのか?」ということだ。もちろん、それは「従業員のため(元従業員を含む)」であって、古い言い方をすれば同じ釜の飯を食う(った)仲間たちということになる。そこではマーケティング的な発想で20代女性(F1層)のような狭い属性をターゲットにした運用ではなくて、老若男女を満遍なく網羅した集合体に対する運用戦略を構築しているはずだ。そして、成果を受け取るまでに数十年の時間がある若手社員は時間を味方にできる—もちろんPatientが必要であるが—運用と親和性が高いと言えなくもない(若手社員の流動性のほうが高いということであれば、それはそれで別の問題ですが)。

将来の世代に向けた申し送り事項として、プライベート・アセット投資を営々と続けていく、この行為に専門用語を当てはめてみれば、正に「時間分散」を行うことに他ならないだろう。そして、時間分散は「今からプライベート・アセットを始めても十分な果実が残っていますか?」という疑問への回答にもなるだろう。

実際にプライベート・アセットを10年前から投資してきた—適切な運用機関選択と分散投資の範囲内であることを前提として—投資家であれば、おおむね満足できる結果が残せているのではないだろうか。それでも多くの年金基金のポートフォリオにとって、プライベート・アセットはまだまだ非常に控えめな役割に留まっているのが実態だ。恐らくは、一番槍を入れた担当者が成果を目にする前に担当職務を外れ、実体験を語る場も喪失した、ということに起因しているのだろう。少なくとも「プライベート・アセットは俺のものだ」と喚い(て糸を切られ)たわけではない。

ポートフォリオはもっと自由で良い、という考えを示すことが本稿執筆のきっかけである。機敏に動いて短期間で成果がはっきりするものと、さして変化は大きくないが、ゆっくりとした時の経過を経てようやく実のなるもの、どちらかに肩入れするのではなく、その両方を取り入れることで、ポートフォリオが複眼的、かつ重層的に成り立つ、ということが大切なことなのだと思う。

 

 

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